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キス

キスをするということを、この際考えてみたい。
よほどのことだと思うのである、キス。

人は愛情を示す時、“たまらず”キスをする生き物だ。
私はこの「たまらない」という感情に出くわすとギョッとする。
例えば…


「キスをしたくてウズウズしている公務員」


ギョッとした。ギョッとしたし、こ奴はかなり信用出来ない感じがしまいか。

公務員が、そうそうたまらなくなっても困るのだし、普通大人は、あまり、たまらなくなっていてはマズイものなのだ。

更に、キスというものは、異性に向けられているうちはまだいいが、人によってはそれが、「芝のグラウンド」だったり、「ピンヒール」だったり、「女子の笛」だったりもするわけである。
こうなってくると、もういよいよだ。
キスを促す原動力となる感情「たまらない」が、いかに人を狂わすかお分かりになるだろう。

私のような無粋な者は、今まさにグラウンドにキスをしようとしている人間に、「おや?そこはグラウンドですよ」と、お節介で声をかけてあげたくなる衝動にかられる。

だいたいキスの顔、あれはなんだっていうんだ。

口をすぼめ、目を半開きにし、ややウットリしながら、顔を斜めに傾ける。
バカなのか。
若干の違いはあれど、皆大体一律にそんな感じだ。
よく考えてみて欲しい。そんな消防士に火事場は任せられないだろう。


かくいう私は、一歳になる次女に、日に百回近くのキスをする。しかも、それでもまだ足りていないのであり、日々不満足感の連続である。

そういえば、元来、人間はなかなか“完全燃焼”をすることのない、変わった生き物だ。

その点動物はきちんと完全燃焼する。
動物は欲望との折り合いがハッキリしており、ダラダラと煩悩を抱えずに過ごせるよう神様に設計されているものなのだ。
ところが人間は違う。

なかなか完全燃焼しない「たまらない感情」という業を、いわゆる「愛」とするならば、「愛」とは大の大人をほとほとダメにするものだと思う。

私が次女にキスをしている時のダメさ加減を聞いてほしい。

「娘にキスをするのはいいんですが、テレビのリモコンを踏んでたりするんです」(妻の談)

「『アプピピー、アマアマアマ、ミョミョミョミョ、ンマンマンマ』とか、わけの解らないことを言いながら、キスとかそういうんじゃなく、カブリつく感じなんです…エエ、確定申告書を作成中のことでした…」(妻の談)


どうだろう、この失格感。
我ながら、何かの間違いじゃないかと思えてならない。
これは、いけないクスリの禁断症状か?
頭上に金ダライを落としても良いぐらいのボケのレベルである。
しかし、喩え頭上に金ダライが落ちてきたとしても、「そんなこと知るか」だ。
それ程に熱心なのである。


完全燃焼することのない、このダメな衝動を、辛くも有効利用すれば“生活力”や、“創作力”といった「クリエイティブ」となるのであろうか、私にはよく解らない。
ただ、そういった実際的な「愛の形」になる以前の、原始的な気持ちの現れが何故キスという行為になるのかが気になるのである。
踏まえて、赤ん坊とは、キスをせざるを得ない条件をちょっと整えすぎだと思う。
そりゃ『アプピピー、アマアマアマ、ミョミョミョミョ、ンマンマンマ』とかなっちゃうって。私は悪くない。



キスをしている人間はどんな姿形をしていようが、まともじゃないと断定したい。
「まともじゃない」は劇的だ。劇的とマヌケはスレスレなのである。

本文とは関係ないが、人の“劇的”ほどどうでもいいものもない。
街に溢れる安いキスと、自分のキスとでは質が違うと思い込んでいる私がいることもここでついでに告白しておく。
俺の方がマヌケだ。
そうなるとやはり、愛はマヌケなのだった。
そして、己のマヌケは美しいのである。



ところで、六歳になる長女はもう私にキスをさせない。
させないどころか、「パパの口笛はなんか臭い」とか言うのである。

口笛が臭いのは、人としてかなりマズイと思っている。
“匂いつきのメロディー”だ、マズイだろ。

クレイマー

倖田來未が世間から苛められているとか、今私は世の中に興味がないらしく、全然知らなかった。

農薬入り餃子なんかは、我が家ではco-opから宅配を受けているのであり、かなり身近な問題だ。しかし、どこか遠くの話題に思えてならない。

ガソリン税にいたっては、焼身自殺や、放火が減っていいや、ぐらいの感覚なのである。

ハンドボールがひょんなことからにわか人気に、とか、時津風部屋のリンチとか、悪ぃけどどうでもいい。

反語的に皮肉なことを言いたいわけじゃない、本当に興味が薄れてるのだ。
否、厳密には興味がないわけではないのだけれど、噂話レベルの悪口として消費してしまおうという気があまりなくなってしまったようだ。(と言いつつやってはいるけどね)

断っておくが、私は悪口は相変わらず大好きだ。しかし、こんなこと(こんな気持ち)三年前なら考えられなかった。
三年ぐらい前の自分のブログを見ると、まるで別人が書いたもののようである。
驚かさるのは、大した影響力もないのに、すごい言いたがりな点だ。

「立場のない人間は吠える」

わかったことはそれだけである。

社会的な出来事に対して義憤にかられ、茶化し、からかい、批判し、提案までする。
そこには、喧しく「俺はここにいるよ」が轟く。

依然私の立場は変わってはいない。
私が問題発言をしたら庇う人間もいないから、あっという間に存在は消されるだろう。

「立場のない人間」を、“自分のことを嫌いな人と出会うことない人間”と定義するならば、今の自分は自分をどうすれば認めてもらえるかを最大の関心事としているのであり、やたらな問題発言を仕掛けて、ややこしいことなんかに巻き込まれたくない気持ちの方が強い。
そんなことをするくらいなら、いっそその効果を計算した“ネタ”を作り、誰が見てるかわからないところでこっそり披露するより、よりスケールのデカい遊びとしてそれを提示するだろう。


クレイマーのモチベーションって、すごくよく解る。あれも自己表現なのだ。
ただそこには「他者」が介在していない。
しかし、衝動の質はパンクのそれと同じものと言ってよいと思う。
その力は非芸能的なもので、スポイルされてはマズイ、純粋表現だ。

私は今芸能力が上昇している。替わりに、闇雲なパンク力が低下しているようである。

どっちがどうとかの問題じゃない。

ネタになるか、面白くアウトプット出来るかしか興味がない今の自分は、表現欲と力が正比例しているのだろう。
恥を忍んで自惚れると、それが芸というものか。
三年前は、曲はおろか、ネタらしいネタも作ってはいなかった。
ただただ怨念にも似た、悪魔的なエネルギーに満ち溢れていた私だ。

この世は、キ○ガイに刃物というより、キ○ガイにインターネットな時代である。

ネット社会は、国の壁を取っ払うどころか、数多のコミュニティーや、閉鎖的な村社会という「“シマ”意識」を育みつつある。

作家の小林信彦氏はかつて、「質の良い芸能を生むには他者の視線が必要だ」と言った。

クレイマー達を生みやすい温床は一概には否定出来ないし、そこに芸を問うても大して意味はない。
いくらくだらない物言いでも、勝ち得た権利の上にあるものであるのは変わりはない。
世の中才能のない平凡な人間がほとんどだ。

と、“昨日までの自分”を見ていてそう思うのである。

だいすき

岡村靖幸、覚醒剤で3度目の逮捕!ファンクラブは解散へ

『2月6日5時38分配信 産経新聞』


「だいすき」などのヒット曲で知られるミュージシャン、岡村靖幸(42)が5日、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されていたことが、公式サイトの発表でわかった。

岡村は、同様の薬物事件で、平成15年に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けたほか、17年には懲役1年6月(求刑懲役2年)の実刑を言い渡されている。

コンサート事務局とファンクラブスタッフが連名で「本人の犯した度重なる反社会的行為により、社会に対し多大なるご迷惑をお掛けしましたことを、お詫びいたします」と謝罪コメントを掲載。本件の詳細に関して「全てを把握しきれていない」と説明した上で、「昨年秋ツアーの振り替え公演を含めた、アンコールLIVE『告白』に関しては、公演中止となります。この公演を楽しみにして下さったお客様には、心からお詫び申し上げます」とファンに向けて告知した。

今後、ファンクラブは解散されることになり、入会金及び年会費は全額払い戻す手続きを取っているという。公演チケットの払い戻し方法などに関しては、公式サイトを通じて知らせるとしている。




*マキタスポークス…

岡村靖幸の狂気ってクスリで生産してたもんだったのかな?

岡村ちゃんの解釈がなかったら、それこそプリンスなんぞ日本人の間尺に合うわけもなかったと思うのである。

岡村靖幸のプリンス論、松田聖子論、etc.
音楽“翻訳機”としての、岡村ちゃんの目から鼻に抜けるような才を思えば、今日の堕落はあまりに残念でならない。

オリジネーターの苦悩がどれほどのものか私は知らない。
でも、クスリに走るのは音楽よりそれが“楽しかったから”だろう。

表現者は結局「楽しい」しか正解じゃない。

岡村ちゃんファンはみんな自嘲気味に「クスリ“だいすき”」なんて洒落てるけど、本音じゃやっぱりがっかりしているはずだ。
だって岡村靖幸ファンは、岡村音楽が大好きだったのであって、クスリ大好きだったわけじゃないのだから。

そういう意味じゃ岡村ちゃんはいっそ、音楽よりクスリが好きになってしまいました、って言ってしまった方がいいと思う。

けど、彼のあの、得体の知れない「狂気の根拠」がクスリじゃ…やっぱりつまらない。

表現者の苦しみなんてリスナーには関係ないこと。
答え合わせしてみた時に面白きゃぁいいだけだ。

岡村ちゃんはよく「格好悪い自分」をテーマにした人である。
なら、ちょうど今最高に格好悪いんだし、だとしたら最高のネタを手に入れたようなもんじゃないか。
それとも美学がそれを許さないとでも言うのか。

いずれにせよ、自分を笑わなければここは凌げないとこだろう。

それが自分をさらけ出した人間の務めだ。最後まで全うしろと言いたい。
じゃなきゃあの狂った「岡村ちゃんダンス」も“欺瞞”でしかない。

岡村靖幸ファンは岡村靖幸に完璧を求めてなんかいない。

岡村靖幸にはもう一度「音楽だいすき」って言ってもらいたい。
だって我々は、岡村音楽で“飛んだ”くちだもん。


銀杏BOYZ

彼らを観て心を動かされない人なんかいるんだろうか。

銀杏BOYZは、非常によく出来た“芸能“ だと思うのである。

現代の“芸能の神”、“利きアイドルの達人”ジャニー喜多川氏も彼らを一目見たら、なにかしらのアイデアを受け取ることになるのではないか、きっと胸騒ぎを禁じ得ないだろう。

彼らの発信するアイデアはオリジナリティーに溢れ、寄り道なく、最短距離で真っ直ぐ心に突き刺さる。
好感か嫌悪か、その二つしか許されない、それ程に研ぎすまされた表現なのである。


「目からウロコ」を落とした経験が、今までに三回ほどある。
一回目はビートたけしの出現、二回目がBLUE HEARTSの登場、三回目がダウンタウンの漫才だった。
三回とも十代の頃に体験した出来事だ。

私は38歳になるおじさんである。
まさか自分がこの歳になって目からウロコを落とすことになるとは思わなかった。

本当によく出来た芸能に出会うと、表現者としてのやる気を削がれる。それは、自分がこの世界にいる必要を感じなくなってしまうからだ。

優れた芸能の前で、人は無力になるしかないのだ。
自分が部分化されていることに気づかされるわけなのだから。

この挫折感の質を「心の植民地」と例えるならば、彼らのイデオロギーの威力がいかに普遍性を持っているか腑に落ちる。

芸能とは、ズバリ「大衆性」のことだ。


ビジュアル、詞世界、楽曲、演奏力、銀杏BOYZの全てが奇跡的なバランスで大衆性を獲得している。これら全ての自力にウットリしない奴は余程の自惚れた天才か、余程の不信論者かのどちらかだ。
きっと釈迦やキリストは、ビートたけしや甲本ヒロトや峯田君みたいな人間だったと思うのである。
そう思ったら大袈裟な宗教とやらも大分身近になるし、そんなもんなのだし、また、だからこそ彼らの存在の偉大さが解ろうというものだ。

ところで、それらの芸能の神達にそこまでヘコまされ、気を奪われているのに、何故私はまだ芸能の世界にぶら下がっているのか。
一言言えるのは、図々しいからだと思う。

「銀杏なんか消えて無くなればいいのに…」

彼らを呪いつつ、愛さずにはいられない。

とどのつまり、生きてる実感をありがとう、だ。

「嗚呼、神様になりたい…」

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